こんばんは。こんにちは。学習塾グルントラーゲです。今日は何の日シリーズですが、やはりどうしてもとりあげたいのが中学社会と関係してくる重大事件、2.26事件です。
◇青年将校の誤算
昭和11年2月、天皇親政を叫ぶ青年将校たちが、雪の東京で銃を取りました。しかし彼らを待っていたのは、期待していた“天皇の共感”ではなく、思いがけない『激怒』でした。1936年2月26日未明、皇道派青年将校約20名が約1,400〜1,500名を率いて決起。斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監らを襲撃・殺害し、首相官邸、陸軍省、参謀本部、警視庁、国会周辺を占拠しました。スローガンは「昭和維新」「尊皇討奸」。腐敗した重臣を排除し、天皇親政の下での「国家改造」を意図したものでした。青年将校たちにとっては、政治腐敗と農村の窮乏を救う“正義の決起”のつもりでしたが、その方法は、立憲君主制の枠を踏み越える武力クーデターにほかなりませんでした。
◇昭和天皇の反応:怒りの言葉とイニシアチブ
昭和天皇は、直後の対応として、26日朝から、陸相・内閣首脳に対し「速かに事件を鎮定すべく」命じ、武力鎮圧の方針を明確にしました。決起部隊への同情から「平和的解決」を模索する動きに対しても、いっさいの妥協を許さない姿勢を示したのです。
以下は、昭和天皇の言葉です。
「朕が最も信頼せる老臣を悉く倒すは、真綿にて、朕が首を締むるに等しき行為なり」「朕自ら近衛師団を率ひ、此が鎮定に当らん」
ここからわかるのは「君臨すれども統治せず」と語られがちな昭和天皇像と対照的に、この局面では、むしろ自ら強い統帥権限を行使し、軍に対して明確な鎮圧命令を下しているという点でしょう。青年将校が「天皇の真意」を体現していると勝手に解釈していた姿勢にたいし、昭和天皇自身は、自らの権威と信頼する重臣を直接攻撃されたと受け止め、「忠誠」の名を借りた反逆と判断しました。
◇なぜ昭和天皇はなぜここまで怒ったのか
なぜ5.15事件などと比べても、ここまで強い拒絶反応になったのでしょうか。いろいろな研究がなされていますが、“感情”“政治”“制度”の三層で整理できるように思います。
・感情レベル
暗殺されたのは、斎藤実、高橋是清ら、昭和天皇にとって長年の「老臣」であり、信頼の柱だった人物たちでした。彼らを標的にしたことが、「陛下のため」という名目とは裏腹に、天皇そのものを締め上げる行為だと受け止められたことが、あの比喩表現に表れているように思えます。
・政治・軍内部の力学
青年将校たちは、陸軍上層部の一部が黙認・利用してくれると期待していましたが、天皇の明確な「反乱軍」認定でその前提は崩壊しました。陸軍内部でも、皇道派に同情的な空気と、「反乱を許せば軍全体の統制が崩れる」という危機感が交錯しており、天皇の強い意向が統制派優位の決定打になりました。
・制度・立憲君主制との関係
これがもっとも重要な論点なのですが、明治憲法下において、天皇は陸海軍の統帥権を持ちつつも、運用実態としては元老・内閣・参謀本部などが意思決定を担う構造でした。その枠組みを無視して、「天皇親政」を名目に軍が政党内閣や官僚機構を武力でなぎ倒す発想は、立憲体制だけでなく「天皇制国家」としての自己イメージにも背くものであり、昭和天皇はそこに強い危機感をもったのではないか、と解釈できます。
◇事件後への視線:激怒の「効用」と限界
二・二六事件後、皇道派は壊滅し、統制派が陸軍内を掌握しました。しかし、その統制派が日中戦争から太平洋戦争へと突き進む原動力にもなり、「天皇がクーデターは抑えたが、軍部の暴走そのものは止められなかった」という皮肉な流れが生じてしまいます。戦後の政治思想家・丸山眞男らは、二・二六事件における昭和天皇のイニシアチブを一定程度評価しつつも、全体としては「立憲君主としての制約」を理由にした自己弁護の色彩が強いと批判しています。それでも、崩御の1年前に二・二六事件を扱ったテレビ番組に激しい怒りを示したという証言などから、この事件が昭和天皇にとって生涯消えないトラウマであり続けたことはうかがえるでしょう。天皇親政を夢見たクーデターは、当の天皇によって『反乱』と宣告され、鎮圧された。そのとき、天皇が見ていたのは“理想の国家改造”ではなく、足下から崩れかねない天皇制そのものだったのかもしれません。
学習塾グルントラーゲでは、歴史や事件からいまにつながる問題に興味をもってもらえるよう、とにかく知的に面白い授業を心がけています。一度、体験授業をのぞいてみてください。
学習塾グルントラーゲ
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2026.02.26
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